昭和24年の夏


熊本の爺さんが先日8月6日、
「今日は俺がシベリアから帰ってきた日だからご馳走を作ってくれ」と
うちのオカンに連絡したらしい。

そんなの初めてだし、いつシベリアから帰ってきたとか、
婆ちゃんも、うちのオカンも叔父たちも知らない、初めて聞いたらしい。

だがしかし僕はかつて、熊本県庁の奥深くにある、援護局の担当者にお願いして
昭和24年、ナホトカ港から出港した爺さんが舞鶴港に帰国した時の
復員証明書を手に入れているので、一族の中で俺だけは知っているのだ。

記録によると8月1日帰国となっている。
つまり5日間かけて、京都から熊本まで帰ってきたわけだ。
4年間シベリアに抑留されて、爺さん当時24歳。

この辺のことを俺以外で知ってるのは、天国の曾婆ちゃんと曾爺ちゃんくらいだろう。
特に曾婆ちゃんは、爺さんが持って帰ってきた水筒に「昭和24年8月6日、○○帰る」と
マジックで書いて残してあったしね。

オカンはシベリアがどこなのか、知らない。
爺さんが満州で働いてた、ということも知らなければ
「マンシュー」という言葉もおそらく分からないだろう。

ちなみに父方の爺さんは帝国海軍 第二艦隊 第三戦隊に所属した当時の
戦艦榛名のマーク持ち機関兵曹だったが親父は「機関銃手」だったと思っている。

それはつまり、爺さんたちは子どもたちにほぼ何も語らなかったということだし、
ボクも自分の親からほとんど聞いてはいない。
その筋に問い合わせて自分で調べた事だ。

爺さんたちからすれば語りたくなかったのだろう。なんとなく分かる。

だがそういう情報の断絶というか、血縁関係における縦の糸が途切れている、というのは
よろしくないのである。子や孫たちがうまく記憶を伝承していかねばならんのだ。何故か。

人生において困難に直面した時、
「いやー、でもここで挫けてたらご先祖に恥ずかしいよ」とか
「母方爺さんはシベリアでネズミ食って生還したのにこんなことでどうすんのよ俺」とか
「父方爺さんはニューギニアやレイテ沖から生還してんのにそれに比べたら」とか
「オカンの苦労に比べたら」とか
そういうドーピングが出来るかできないか、そういうのって大きいと思う。

死にてーなと思ったとして、
或いは子どもとかイラネーと思ったとしても

「ここで俺が命のリレーを途切れさせたらヒジョーにマズイ」
と思えるはずなのだ。

ボクは、他の多くの親たちと同じように
子どもの可能性を可能な限り伸ばしてやりたいと思っているけど、
それと同じくらい、自分の命は自分だけのモノじゃない、ということを
しっかり理解できる人間に育てたいと思う。