満州大冒険


熊本帰ってきたんで母方の、爺さんの話を聞いてきましたメモ。

爺さんは昭和19年ごろ、高校卒業して奉天の商社みたいなところに勤めて、
米の販売管理みたいな業務をやってたらしい。

昭和20年、甲種合格の爺さんは入営が近づいてきたので一旦故郷に帰ろうと思ったけど
当時満州から内地への切符を手に入れるとか、とんでもなくハード。

でも爺さんは仕事で現地の官憲にも米を卸していたので、多分ちょっと悪いことをして
(本人はゴニョゴニョ言ってたけど入れ歯のせいではないと思う)、
上手く計らってもらって内地行きの切符と三カ月の休暇をゲットという
破格の厚遇を得て故郷へ。

で、帰ってみたらなんと曾祖父にも海軍からの召集令状が。
妹の生子おばさんはまだ女学校に通ってるし、田畑どうする問題に直面。
良くわかんないけど、売ったり人に貸したりで色々と家の事やってたら
なんと入営日に間に合わず!

当時、入営(兵隊の部隊にいくこと)に間に合わないとか、
本人もただじゃすまないうえに家族も非国民扱いされる時代。

まぁでも昭和20年ともなると銃後も疲弊してそんなことなかったのかもだけど
とにかく大急ぎで爺さんと曾爺さんで田畑の整理をして
前代未聞の「親子で壮行会」が挙行され、爺さんは満州、曾爺さんはおそらく佐世保へ。
しかし下関から満州への船ていっても当時だと
潜水艦の魚雷くらってボカ沈というのも多いし、
なかなか出港せずにいつ出港するかもわかんなかったので
諦めて熊本にUターンしたらしく、真面目な青年ではなかったようです。

で、海軍行きの曾爺さんは、熊本駅前に宿を取って海兵団への入団に備えてたので
そこを訪ねたらもちろん、息子が逃亡して帰ってきたと思って曾爺さん大激怒。
超親子喧嘩になるも、なんとか事情を説明して落着し、
再度父子の別れの宴を開いたかは定かじゃないけど、とにかく爺さんは
一路ハルピンへ向けて満州鉄道に乗り込んだ。

そこで何故か
「どうせ死ぬかもしれんし、入営に3日遅れるも4日遅れるも一緒じゃね?」と
思ったらしく、途中で列車から飛び降りて友達のところに遊びに行って
散々飲み散らかした挙句、改めて入営地に向かった。

勿論、正規の入営日は過ぎてるので、営門をくぐるのは爺さん一人。
普通だったら半殺しにされるところなのに、
「おぁ、よくこんな戦況の悪い中到着できたね」の一言、
ビンタの一発もなかったそうなので、昭和二十年の5月というのはそういう空気だったらしい。

ここに原口二等兵は無敵関東軍の一員となったのである。

その後8月になってソ連、爺さんの言葉を借りれば「ロ助」が
500台くらいの戦車をガラガラやって攻め込んできた。

でも南方戦線は別として、満州の関東軍はやっぱりみんな日本が負けるとか、
そんなこと1ミリも思ってなかったらしくハリキって戦闘したんだけど、
対戦車用爆薬を持たされて、与えられた命令は
「壕を掘って潜み、戦車来たら体当たりで刺し違えて死ね」だった。

壕を掘るっつったって、スコップもなにもない。
あるのは腰にさしたゴボウ剣だけ。

そこで爺さんは壕掘りを放棄して、近くにあった機関銃小隊の陣地(ほぼ草むら)に
入り込んで、戦友と二人でウォッカ飲んで眠りこんでたらしい。
そんなことして咎められてないので、よっぽど要領がよかったのか
いわゆる兵隊チンピラ(?)だったのかもしれない。

で、翌日眼を覚ましてみると友軍は全員撤退でもぬけの殻。
周りはロスケうじゃうじゃで陣地構築中。
幸い草むらの中で寝込んでいたので発見されてなかったんだけど、
見つかればマンドリン銃でハチの巣にされてしまうので、唯一の武器である
手榴弾二発(一発は自決用)も捨てて、二昼夜を徹して友軍を追求し(方向は勘)、
やっとのことで部隊に帰隊してみると、見事に戦死認定されており自分の名前は
線で消されてたそうな。

多分その時の退却戦(?)かどうかはわかんないけど、
爺さんの親指の爪は銃弾が抉り取ってる。

とにかくロスケとの戦闘はかなり激しかったらしく、
以前聞いた時には、部隊長の奥村大尉の戦死の模様はほんとに悲しかった。
それで激減した中隊は別の中隊と合併したりしながら戦闘を繰り返し、
ついに終戦、武装解除、騙し打ちのシベリア行きと合いなって
零下30度は当り前、零下50度まで体験したという艱難辛苦の末、
ネズミを食いながら命永らえて復員したのは昭和24年秋の舞鶴港。

まさに「兵隊三カ月、捕虜四年」である。

そんな爺さんも齢87。
まだ全然元気だけど、なかなか会う機会がないので
先週末に娘(爺さんからすれば、ひ孫)を見せに熊本帰りまして、
こんな話を聞いてきました。

一つ行動を違えてれば、俺は生まれてないわけで

ちゃんと子どもたちに話してきかせるからね。