あんまり資料の残ってない第七根拠地隊


2年くらいまえに亡き祖父の経歴を知りたくて、
厚生労働省から祖父(海軍)の軍歴証明書を取り寄せた。
昭和14年、佐世保海兵団に志願し機関兵として
重巡洋艦「妙高」に乗り組むも胸を病んで
退艦、内地で入院療養しやっと退院したころに英米と開戦。

退院後は佐世保海兵団の団内勤務となっていたが昭和17年、
南太平洋の戦況悪化に応じて新設の第八艦隊(司令長官は三川軍一中将)編成に
ともなって新たに編成された第七根拠地隊の司令部に転属、となっていた。

記録によると転属直後に第八艦隊の旗艦である重巡洋艦「鳥海」に乗って呉を出発し、
これには三川中将など第八艦隊司令部が乗っており、ラバウルに進出、
第八艦隊はラバウルに司令部を構えた。

この、第八艦隊司令部が鳥海に乗って呉を出発、というくだりは、
よく戦記なんかにも登場する。

だけどその後、第七根拠地隊がどういう行動を取ったかということは
ググるくらいじゃなかなか出てこなくて、分からないままだった。

なんとなく、第七根拠地隊というのはニューギニア戦線に投入するために
編成されたものだ、という感じのことを読みかじったくらいで、
生きて復員してるんだからまさかニューギニアに渡ってはいないだろう、
ラバウルで足止め食らっていたんじゃないか、くらいに
勝手に想像してたら、今読んでる戦記によると
第七根拠地隊はかなり早い時期(昭和17年の夏ごろ)に
ニューギニアに上陸していたことがわかった。
ニューギニア、である。オーストラリアのちょっと手前。
ニューギニアの戦線がどれだけ悲惨だったかといえば、
16万人が投入されて15万人が無くなった地獄の戦線である。
「地獄の日本兵」とか「私は魔境に生きた」とかその悲惨な戦記は沢山あるが
そのニューギニア、である。
しかしながら祖父は昭和18年の5月、海軍機工学校に入学するため
ニューギニアを離れ、内地に戻り横須賀で機工学校に学んだので、
それで一命を取り留めたと言っても過言ではないだろう。

昭和18年の5月までニューギニアで生きていた、
ということだけでも(守備していた場所がよかった)幸運であったし、
当時既に船と飛行機の墓場となっていたダンピール海峡、ソロモン海を越えて
内地に戻れたということもかなりの幸運である。

ひょっとしたら、第7根拠地隊の主力はニューギニアに渡ったものの、
司令部はラバウルに残っていたという可能性もあるが、
いずれにせよ僕にとっては新発見であり、
この父方の祖父は黙して多くを語らない人だったので
もっといろいろ聞いときゃよかった、とこの歳になって悔やまれる。

 

家族は大切にしようね。