(第二十一回)戦後


終戦前日のことは「日本のいちばん長い日」を観るか読んでいただくとして、
昭和20年8月15日に、ものすごい数の命が失われた戦争は終わった。

それから日本軍は至る所で武装解除されるわけだけど、その時いた場所によって、
どの国の軍隊に降伏し武装解除されるかが決まっていた。
熊本の第六師団が戦っていたブーゲンビル島は、終戦時オーストラリア軍が相手だったので
オーストラリアに降伏したし、大陸の支那派遣軍は多くが中国軍に降伏したわけで、
支那派遣軍にとって中国(要するに蒋介石の重慶政府軍)に負けてるという
感覚はなかったから「降伏とかしねぇぞ!」という気持ちで一杯だったと思うが、
それでも武装解除は滞りなく進んだ。

終戦を知らなかった小野田さんたちががルバング島でその後何十年も戦い続けたりして
直属上官の命令が無ければ終戦を信じないという、それくらい強固な信念の日本軍を
整然と武装解除に従わせた天皇の命令というのは、それだけ凄かった。

ちなみに朝鮮半島にいた日本軍は37度線より以北は中国、以南は米国に降伏せよという、
適当に決まったラインが、将来北朝鮮と韓国の国境線になることになる。

一方ソ連に何十万人も連行されてるぞっていう情報もわかって、
「おいこらロスケ、オノレはなんてことしてくれとんじゃい」と
怒鳴りこむところだと思うけど、敗戦の混乱もあってか日本政府は、知らんふりをした。
中国に多くの日本人の子供が残されていることも知ったけど、知らんふりした。
だからそのあとも多くの人たちの人生が狂うことになる。

一方日本内地ではマッカーサーがパイプ吹かしながらカッコつけて厚木に降り立った。
進駐軍はチョコとかガムを子供達にばらまいて日本の女性に優しくして恋したりとかした。

ボクがポイントだと思うのは、結構推測だけど日本にやってきた進駐軍のほとんどは
直接日本軍と交戦していない後備部隊だったんだと思う。調べてないけどね。

アメリカ人は結構呑気というか大らかで陽気で「ヘーイ」みたいな感じだったので
一部の頭脳は戦後の日本を絶対管理下に置くための計画を練ってるとしても
ほとんどのGIジョー達は割と簡単な気持ちでやってきて進駐したんだと思う。

なぜならフィリピン戦線とかで白兵戦を行った者同士であれば、
そこで行われた事を思えばどうしても相手の国民が憎いから
多くの悲しい出来事が起こったはずだと思う。

GHQというかアメリカの頭脳は、日本にちょっとビビってた。
日本やべぇよこいつら、と思い知ったので日本の牙を抜いて、
ただの農業国にしようとした。

だから将来日本人が「今は隠忍自重、将来かならずやこの仇を」とか思わないように
日本人の精神に深く影響を与えていると思われるいろんなことを禁止した

剣道もダメ、忠臣蔵もダメ、学校の科目から修身の授業もなくなったし
これは今も復活していない。進駐軍の兵士には

「日本人は侮辱されると、その相手を殺して自分も腹を切るので絶対に侮辱してはいけない」

とか書かれた赤本を渡してかなり注意したことは確かだ。
そして憲法を日本人に代わって作ってやり、そこには戦争を放棄する第9条があって、
戦争放棄は世界中のだれもがウェルカムなことなので、日本の国民は何の違和感もなく
それを歓迎した。

実は何か国かで日本を分割統治しようという計画もあったけど、それは流れた。
もし分割統治になってたら、ボクが熊本から東京に行くのにパスポートがいるような
世の中になっていたということだ。

その後、アメリカは常に正義でなければいけないので、
「勝てば官軍」方式のデタラメな戦争裁判で

「日本は悪かったです。アメリカ正義です」という
そういう事が立証されました的な芝居をやって、みんなそれをなんとなく信じた。

日本国民へ向けた「真相はかうだ」というラジオ番組をやって
「みなさん戦争では大変苦労されましたね。悪いのはあなたたちではありません。
軍部です。でもその軍部を私たちやっつけて解体しましたのでもう大丈夫ですよ
アメリカがあなたたちを解放します」

みたいなことをアジった。日本国民は戦争で極度に疲弊していたので
そういう風に言われると自分たちが鬼畜米英、とか、欲しがりません勝つまでは、
とか言ってたり武運長久の旗を打ち振っていたことは忘れて、
「悪りぃのは日本の軍人だ」という思考に逃避してしまった。

だから日本にコテンパンにやられた中国やオランダやイギリスやオーストラリアが、
戦争裁判で、待ってましたとばかりの仕返しとして多くの無実の日本の将兵をデタラメに
裁いて死刑判決を出し、数千人の命が遠い異国の地で露と消えているにもかかわらず、
あまり日本国民はその事に対して敏感になることはなかったというか、鈍感であった。

実際は理にかなった判決もあっただろうけど、多くは例えば

『自分は飲まずとも捕虜に飲ませた味噌汁が「腐ったスープを飲ませた」として死刑判決』、そういうデタラメさであった。

しかしこの、特に南方で行われた戦争裁判における今村均大将の功績は、素晴らしい。

そんなこんなで日本骨抜き計画が進んでいたんだけど、
情勢は変わって、民主主義と社会主義の戦い、要するにアメリカとソ連の対立が深まってきた。

アメリカとソ連の代理戦争として朝鮮戦争が起こった。
日本は、地理的に共産圏に対する牽制としてとても重要な位置にある。

だからアメリカは日本を農業国にするのをやめ、再軍備させようと方針転換していたのだ…