ヤキ1カ電

霞が関ビル(36階建)、京王プラザホテル(47階建)、新宿三井ビル(55階建)とか、
ようするに戦後の高層ビル設計の第一人者である建築家、池田武邦氏は
ハウステンボスの設計とかでも知られているけど
海軍兵学校72期出身で、軽巡洋艦「矢矧」乗組みの航海士である。

 

「矢矧」の航海士で戦後、日本の復興に貢献された、ということがどういうことかというと、
日本が幕末から営々と築き上げた海軍力を総結集して戦ったマリアナ沖海戦に参加して、
日本海軍が事実上壊滅した、史上最大の海戦であるレイテ沖海戦を生き抜き、
大和の沖縄水上特攻から生還された、ということだ。

 

水上特攻に関して言うと
「矢矧」というフネは昭和20年4月、大和とともに沖縄へ向けて
水雷戦隊の旗艦として出撃し、魚雷を6~7本、爆弾を10発以上被弾して沈没した。

そこから生還された、ということである。

 

以上前置きだが、その池田氏を主人公にしたドキュメンタリーを
夜布団の中で読んでいたら、僕個人においてはガバッと跳ね起きるような記載があった。

 

「ヤキ1カ電」についてである。

 

これにまつわる、非常に生々しい記載があったのだ。
しかも、当時大和の艦橋にあって、実際目撃された方が戦後長く口を閉ざしていたが、
60年以上経って、後生に事実を伝えるべきだということで大和の元副砲長が決心して
池田氏に語ったという経緯で明らかになったことだ。

 

「ヤキ1カ電」といっても現代の日本人は知らない人が多いので、少し解説する。

 

米軍のフィリピン上陸を阻止するために
日本海軍が捨て身の殴り込みをかけた史上最大の海戦である「レイテ沖海戦」。

 

結果から書くと日本海軍は、
小沢治三郎中将率いる機動部隊を囮として空母4隻全ての沈没と引き替えに
米機動艦隊をフィリピン・レイテ湾から誘い出し、
西村祥治中将率いる遊撃部隊がレイテ湾に突入し、湾を守る米水上艦隊の砲弾を
一手に引き受けて消耗させ、駆逐艦1隻を除いて全滅した。

 

そして、殴り込み主力部隊である栗田艦隊は
ブルネイからの進撃半ばで多くのフネと人命を失い、戦艦「武蔵」を失いながらも
レイテ湾まであと少し、のところまで進撃した。

 

突入前に、居合わせた米護衛空母群をボコボコにした。
米軍は救助要請を暗号化する余裕もなく平文で「助けてくれ」の電波を飛ばしまくった。

 

しかし、栗田艦隊は突然舳先を北へ向け、反転した。何故か。

 

『「ヤキ1カ」の地点に有力な敵機動部隊を発見』という電報が南西方面艦隊からもたらされ、
栗田艦隊司令部はその敵を捕捉・殲滅すべく反転したのである。
しかし、その「ヤキ1カ電」は、戦後大和の通信士の「受信した記憶が無い」という証言や
他の艦船では一切受信した記録がないこと、南西方面艦隊でも発信の記録が無いなど、
この情報の出所については長らく謎とされてきた。

 

これが「ヤキ1カ電」だ。
話を戻すと、この「ヤキ1カ電」が実は、とある司令部参謀の捏造であった、
というようなことが書かれていたのだ。
なので僕はガバッと跳ね起きた。
これが捏造であったということがどういうことかは、感じるところ人様々だと思うけど、

 

多分この「ヤキ1カ電」がなければ栗田艦隊はレイテ湾に突入し、
米上陸部隊を殲滅するのと引き替えに、全滅していたはずだ。

 

全滅して米軍の侵攻を遅らせ、ひょっとしたら和平への準備へ向けた時間を稼ぐことができ、
沖縄戦や原爆の前に終戦を迎えていたかもしれない。たらればの話だが。

 

しかしレイテで艦隊が全滅するということは、僕の祖父も戦艦「榛名」とともに戦死して
僕はこの世に生まれないということになる。
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