(第六回)盧溝橋、零式戦闘機


このへんはとっても複雑で俺にはあんまりよくわからんのだけど

日本が満州国を建国して五族協和!とか王道楽土!とかの理念で頑張る一方、
中国では蒋介石の国民政府軍と共産党軍がドンパチやっていて、同時に
排日活動もやんなきゃなんだけど、蒋介石は国力の事も考えて、一旦排日よりも、
共産党との戦いを優先する事にする。

なんだけど、豈はからんや、コミンテルンの働きにより「国共合作」つまり
「俺たち中国国内で争ってるけど国民政府と共産党で一旦手を結んで日本をやっつけようぜ!」ということにあい成る。

昭和12年、そして起こった盧溝橋事件。
大陸にあった日本の関東軍は内閣・陸軍中央の不拡大方針をぶっちぎり、
じゃんじゃん戦線を拡大していき、何故か内閣・陸軍中央もそれを容認というか追随し
泥沼のシナ事変、つまり日中戦争へ踏み出したのだった。

事変当初、昭和天皇が陸軍の参謀総長、杉山さんに
「この戦はどれくらいでカタがつくか」と聞かれて
「三ヶ月ッスよ」と答えて2年近くが経った昭和15年、遂に「零式戦闘機」が登場し
重爆と戦爆連合で重慶爆撃をやってソ連製ミグをじゃんじゃん撃墜したりする。

この頃の事は新藤三郎さんとか鈴木實さんとかに取材した書籍が
誰でも読みやすい感じでいくつか出版されている。「祖父たちの零戦」とかね。

厚生労働省に問いあわせて軍歴照会を行ったところ、
ボクの父方の祖父、照雄さんは昭和14年に志願して佐世保海兵団に入り、
重巡洋艦「妙高」機関兵として海軍軍人としてのキャリアをスタートしている。

井上本家の長男だったのに軍人に志願したのは意外でもある。

ここからは推測だけど、機関兵というのはシゴキがめちゃめちゃ厳しかったらしいので、
「月月火水木金金」と言われた海軍の猛訓練、
例に漏れず照雄さんもボコボコにされたんじゃないかと思う。

そして照雄さんは胸を病み、数か月に及ぶ入院生活を送る事になる。

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