(第八回)破竹の進軍とミッドウェー


最後まで外交による努力は続けられたが、ニイタカヤマノボレ1208、
遂に日本は米英蘭を相手に開戦した。
(実際は、外相東郷茂徳は開戦前数日になるとアメリカ大使の面会を拒否したけれど)

米軍一般は、日本人はみんな近視のメガネで出っ歯で創造性に乏しいと思っていたので、
まさか日本がものすごい航続距離を持つ零戦や圧倒的に優れた酸素魚雷を
持っているなんてことは知らず、まして機動部隊がハワイへ奇襲をかけるとか
そんなこと出来るはず無いと思ってて、だけど日本はやってきて、
そして真珠湾での日本の爆撃精度はありえないくらい高くて、驚愕した。
そもそも空母から発艦した艦載機による攻撃だとすらも、思わなかった。

だがこれで参戦の大義がたった米国は、「卑怯な、日本」ということで
世論の後ろ盾を得て戦争へ突入する。

この真珠湾攻撃で連合艦隊司令長官、山本五十六が意図したのは
真珠湾にて敵機動部隊を壊滅させ、太平洋における米国海軍力を一時的に戦闘不能の
状態にし、米国世論の戦意が低下した隙を狙って和平の道を探るというものであり、
この意味では敵機動部隊は外洋にあり、討ち漏らしたことになる。

機動部隊参謀長であった草加龍之介の「手練の一撃を加えれば残心することなく退くべし」
という信念のもと、真珠湾攻撃後に敵機動部隊を求めて行動することは無かったのだ。

一方真珠湾が猛火に包まれるのと同時に、日本陸軍は英国軍が駐留する
マレー半島コタバルに上陸。英国軍を圧倒し、大本営の予想を超える55日で
1000km以上を進撃、シンガポールへ上陸。
ここでシンガポールの英国軍は日本に降伏。10万人の英国将兵が日本軍に投降した。
この時の日本軍の司令官山下奉文中将は「マレーの虎」と呼ばれる事になる。

海上においても上陸二日後の12月10日、マレー沖で世界初の戦艦対航空機、
マレー沖海戦が展開され、日本の戦爆連合は英国の最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの二艦を撃沈し、世界に先駆けて、航空時代の幕開けを告げた。

同時に、米国の統治下にあったフィリピンへも上陸した日本軍は、
1ヵ月でマニラを無血占領する。当時、軍司令としてマニラにあったマッカーサーは、
「I shall retern」と言い残してオーストラリアへ逃れた。

そして日本の海軍航空隊はラバウルまで進出、
陸軍はオランダ領東インド(今のインドネシア)進出、1ヵ月でオランダ軍を降伏させ、
遂にニューギニアまで進撃するなど、まさに破竹の勢いの日本軍であった。

しかし4月、討ち漏らした空母から発艦した爆撃機が日本本土を空襲、
責任を感じた山本五十六は、米国領ミッドウェー島を攻撃する事で
敵機動部隊をおびき出し、総力を挙げた大決戦で一挙に雌雄を決するため
各所の猛反対を押し切り、昭和17年の6月、運命のミッドウェーへ向けて出発した。

そしてそのミッドウェー作戦は、米軍に暗号を解読され、待ち伏せを受けていたのである。

しかし待ち伏せを受けても、日本海軍の上空哨戒にあたる零戦は強かった。
迫る敵機を撃墜につぐ撃墜で母艦を護りぬいたが、数発の爆弾が空母に命中。
通常それだけならダメージは無いのだが、いろいろな理由で各空母の甲板には
魚雷を搭載した艦載機がズラリ。
誘爆につぐ誘爆で被害が拡大し歴戦の南雲機動部隊はここで一気に空母4隻を失い、
日本は初めての敗北、それも惨敗を喫する。

この頃、照雄さんは第七根拠地隊司令部付となっている。陸上勤務だったということだが、
おそらくそこで良い上官に出会ったのではないかと思う。
海軍機工学校に入学が許可され、重巡洋艦「鳥海」に乗って横須賀の機工学校へ向かった。

そして照雄さんのキャリアとは裏腹に、南方ではガダルカナル島に米軍が上陸し、
連合国の反撃が始まったのである。

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