(第十二回)あ号作戦


昭和19年6月、アメリカ軍のマリアナ諸島侵攻に対し、
日本海軍は一大決戦を意図して「あ号作戦」を発令した。

この作戦の指揮官であった小沢治三郎中将は
「アウトレンジ戦法」という、日本の航空機の航続距離の長さを活かし、
敵の制空権外から航空攻撃を仕掛け、敵機動部隊を殲滅するため
頻繁に索敵を行い、遂に6月19日早朝、サイパン付近のアメリカ機動部隊を発見、
即座に艦載機を発艦させた。

「勝った…」

艦橋ではこの時点で万歳も見られたという。

しかし、日本の攻撃はレーダーにより察知されており、
敵機動部隊上空には敵戦闘機が待ち構えていた。
そして、日本の搭乗員はまだ練成途中の若い搭乗員がほとんどであり、
歴戦のベテランパイロットはほとんど、南方の空で命を失っていた。
そして敵戦闘機の前に一機、また一機と撃墜されていったのである。

また若い搭乗員たちにとって、
何の目印もない洋上で、敵を攻撃して母艦に戻ってくる事は
攻撃以上に難しく、洋上で機位を失して燃料切れで母艦に
帰投できなかった航空機(特に単座の戦闘機)も多かったと言われている。

この戦いで日本は正規空母2隻を失い、
再編された空母航空隊の艦載機400機近くを失って幕を閉じたのであった。

これで、日本海軍の機動力はほぼ壊滅した。
まだ空母は残っていたが、艦載機の消耗は激しく、
その残った航空機をもって再編された基地航空戦力も、
10月に起きる台湾沖航空戦でほとんどを消耗してしまう事になるのである。

この戦いで、祖父照雄さんの乗る「榛名」は参加した戦艦の中では
ただ1艦、爆弾の直撃を受けている。

この海戦に敗北した段階で、この戦争における日本の勝機は絶望的となった。

特に海軍に於いては多くの将官が心の中でそれを感じたのではないかと思う。
しかし戦火は止むことなく、フィリピン方面へと遷移していくのであった。

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