(第三回)日露開戦


その後日本はなんやかんやで国作りを進めて、
なんやかんやで清国と戦争になって、勝利した。

その日清戦争の賠償として得た遼東半島なんだけど、
ロシアがドイツとフランスに呼び掛けて、
「おいコラ日本、遼東半島は清国に返したれや」と口をはさんできた。

勿論「なんで全然カンケーねーお前らにそんなこと言われなきゃなんねーんだよ!」
となるんだけど、まだ日本は丁髷を切って30年弱の貧乏国。筋トレしたのび太みたいなもんで、
ジャイアンのロシアには勝てないし下手に口ごたえして戦争にでもなったら事は重大だ。。

彼等の言うとおりにするしかなかったのである。

そして「俺たち正義だぜ!」と中国を救ったかのように見えたロシアは、
ササッと自分達が遼東半島に進出して(表向きは租借という形をとったけれども)、
大量の軍隊を送りこんで旅順に要塞を築くとかして居座っちゃった。

この時日本人は「臥薪嘗胆」の気持ちでグッと堪えると同時に、
不凍港を求めて南下するロシアの脅威に恐怖し、将来ロシアとの戦は
避けられないであろうという考えのもと、必死で軍備を整えることになる。

とは言え当時の日本は農業国。輸出するものと言えば絹くらいのもの。
それが国民挙げて食うや食わずの生活に耐えて税金を納め、欧米に軍艦を発注し
国を挙げてロシアに立ち向かえるだけの艦隊を整備した。

当時まだ日本は戦艦を作る技術は持ってなかったのだ
このへんは司馬遼太郎「坂の上の雲」に詳しい。

しかし日本とロシアの国力は雲泥の差があり如何ともしがたい。
特に陸軍の兵力は圧倒的にロシアが優勢であり、海軍力も艦隊の戦力で比較しても日本の2倍。
政府、軍部の見解としては極力戦争は避くべしという論調が強かったが
ロシアはバリバリ南下。

そんなロシアの勢力拡大を是としないイギリスと日英同盟結んだりして
ロシアを牽制するも、その南下政策を止めるには至らず
ロシア皇帝は日本人の事を公式文書中で「猿」と書いてしまう始末。

「満州地方の権益は全てロシアにくれてやるからそれでなんとか勘弁してくれ」
という日本の最大限の譲歩案に対し「イヤだ。朝鮮半島も半分もらう」という
強硬姿勢をロシアが見せた事により、遂に明治政府と天皇は開戦を決意。

ここに日本の存亡を賭けた日露戦争が勃発したのであった。

このころ既に井上家の祖、伊三次さんは鬼籍に入り
夘四郎さんが家督を継いでここに初めて井上家は本籍を和歌山から熊本に移し、
それが今に至るも僕たち家族の本籍である。

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