(第十七回)散るぞ悲しき


昭和20年初頭、硫黄島守備隊の将兵は食糧難と水不足と地熱と硫黄ガスと戦い、
ものすごい地下陣地の構築を急いでいた。
硫黄島というのは基本的に水が無くて、地下から湧く水というのは
有害物質が含まれているがこれを飲むしかなく、敵がこなくても
病で命を落とす人、発狂する人は沢山いた。

そして何カ月も続く猛爆撃。
硫黄島の戦いというのは、米軍上陸から始まったのではない。

陣地構築自体、命をかけた作業であった。
米軍の上陸前に、内地から中攻による輸送任務にあたった根本少尉が、
硫黄島の食糧事情を知らなかったため折詰弁当を半分くらい食べて、
なにげなく残りを捨てたところ、周りでフラフラになりながら
陣地構築をやっていた兵隊が、意を決したようにその弁当に手を伸ばした。

将校が「みっとも無い事をするな!」と制したがその兵は
「私はいりません、これをどうぞ」とその将校に差し出す。
将校は顔を背けて「俺はいい。お前達でいただけ」と言う。

そこではじめて硫黄島の事情を察した根本少尉は衝撃を受け、
ありったけの弁当と水(搭乗員用)を輸送機から持ってきて
硫黄島の兵士たちに手渡した。

そして根本少尉は米軍上陸後も、海上掩護部隊に決死の夜間爆撃を行い、
硫黄島将兵を歓喜させ、奇跡的に生還している。

2月、米軍は海面を埋め尽くす大船団をもって遂に本土硫黄島に侵攻した。

なぜ硫黄島が日米にとって重要拠点であったか。
それはサイパンから発進するB29の補給基地として、また日本本土爆撃で
被弾したB29にとってサイパンまでは帰れなくても硫黄島に飛行場があれば
そこに着陸する事ができる。逆に言うと日本にとって硫黄島を奪われる事は、
更なる本土空襲の激化を意味していた。

硫黄島守備隊約22,000人。
鹿児島の精強な現役部隊である歩兵145連隊、バロン西中佐率いる戦車連隊と
屈強な部隊が配置はされたものの、その他の多くは応召兵であり、
内地に妻や子供を残して出征してきた30代、40代の人たちであった。
つまり「軍隊教育を受けた普通の人たち」と言っていい。

硫黄島の日本軍は、ペリリニューの日本軍のように長期持久戦で米軍を苦しめた。
物量で大人と子供以上に優勢な米海兵隊を相手に、ものすごい出血を強いた。

戦史上は、3月17日に最後の総攻撃を行い日本軍は玉砕した事になっているが
その時点で6000人程は地下陣地に生存していたとされる。

そしてその後数ヵ月、残存日本軍はひたすら、
米軍と、水不足と、飢餓と、病と、負傷と戦い続けた。

硫黄島の戦記はたくさん出ているが、そこには勇戦奮闘する
日本軍の姿だけでなく凄惨な地獄絵が綴られているので、
読むにはある程度の覚悟が必要であることを付け加えておく。

そして米軍は硫黄島で日本軍以上の戦傷者を出しながらも
3月下旬に沖縄へ侵攻し、ここでも牛島満司令官、長勇参謀長のもと
沖縄の日本軍は米軍にものすごい出血を強いて健闘するが6月、
組織的戦闘を終える。

沖縄戦では約95,000人の日本軍が斃れ、ほぼ同数の民間人の方々が亡くなった。
その間、沖縄で戦う同胞のため、空からは特攻機が毎日、
鹿児島の知覧(陸軍)、鹿屋(海軍)基地から飛び立っていった。

そして4月上旬には、海軍の残り艦艇のほとんどをつぎ込んだ、
大和を中心とする水上特攻が行われたのである。

一方この頃、母方の祖父展治さんは、満州の奉天で就職していたが、
遂に現地召集され陸軍二等兵となっていた。
展治さんは長男で唯一の男だったので、
曾祖母のフイノ婆ちゃん、曾祖父の成男爺ちゃんにとってはたった一人の跡継ぎ、
内地にいれば徴兵は免れぬ我が子、満州であればなんとか無事に、
という想いが心の中にはあったんじゃないかと思う。

展治さんは今も存命だが
所謂腕白者というかはみだし者であって、後にソ連軍に追い込まれまくって
必死で退却中の夜に軍律違反を犯して酒を飲み明かし眠り込んで、
目が覚めたら部隊は出発していて背後にソ連軍が迫ってて
徹夜で追求して命拾いをしたとか、そんなことを縫子婆ちゃんが言っていた。

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