(第十一回)絶対国防圏


そして迎えた昭和19年、クェゼリン島の日本軍玉砕、
2月には連合艦隊の本拠地ともいえるトラック島が空襲を受け
航空機270機、艦船も数十隻失うという大損害を出した。

迫りくる連合国軍の包囲網に対し日本はマリアナ諸島、カロリン諸島、ゲールビング湾、
ニューギニア以西を範囲とした「絶対国防圏」を設定し、最重要拠点であるサイパンの
要塞化を進め、時の首相東条英機はサイパンの防衛に絶対の自信を表明する。

一方泥沼の日中戦争においては、何とか蒋介石への支援ルートを断ちたいという視点から
ビルマ方面でインパール作戦を実施、そもそも無謀であったこの作戦の失敗により、
大陸においても日本軍は死屍累々、後に「白骨街道」と呼ばれた壮絶陰惨な撤退戦を強いられることになる。

また一方で中国大陸における「大陸打通作戦」が実施され約50万人の日本軍が投入、
2400kmに及ぶ大攻勢作戦(しかも徒歩)が展開され、日本軍は泰緬鉄道を敷設し多くの犠牲を出しながらも一定の成功を収めた。

欧州を除けば世界中で、日本軍は戦っていた。

そして6月、築城準備の整わないサイパンに米軍上陸。
内閣、軍中央の予想を遥かに超える物量で攻め込まれ、
勇戦奮闘した3万人の日本軍守備隊も遂に玉砕、内地への引き上げが間に合わなかった
民間人約1万人も運命を共にした。
今でこそサイパンはリゾートして知られてはいるが、当時は普通に日本人がたくさんいて、
日本企業の支店や料亭もあれば、勿論日本人の学校だってあったのだ。

絶対国防圏を破られたことで東條内閣は引責総辞職、
小磯国昭を首相とした新内閣が組閣された。

そしてサイパンを攻略した連合国軍は大型爆撃機を多数配置、
機動部隊はなおも飛び石伝いに日本へ向けて進撃し、
9月には米国海兵師団がパラオ諸島のペリリュー島に上陸した。
このペリリューを守っていたのは、熊本出身の中川州男大佐率いる守備隊約11,000人。

この島で米軍は、地獄の戦いを強いられる。

サイパンの戦訓から日本軍は島内地下深くに地下陣地を構築し、
徹底持久戦を覚悟の上待ち構えていた。一方の米軍は艦砲射撃の援護も勘案すると
数百倍の火力であり「3日で落とす」と宣言してペリリューに殺到したが、
一か月半が経過してもペリリニューは抜けず、壊滅したのは米国第1海兵師団の方であり、海兵隊司令官は心労から心臓病を発病した。

しかしながら第一海兵師団と交代で新手の米陸軍第81師団が投入され、
武器、食料一切の補給が無い日本軍はジリジリと包囲されていく。
そして兵力弾薬ほとんど底をついた11月24日、司令部は玉砕を決意。
米軍上陸から二か月半が過ぎていた。

この間、天皇からの嘉賞11度、感状3度が与えられ将兵を勇気づけた。

そして玉砕前日、「俺たち、明日一切の暗号書、重要書類を焼却して
軍旗奉焼の後、最後の突撃を行う。ついては準備が整い次第、『サクラ』を連送するから」

という意味の事前通達を大本営へ連絡し、大本営ではその通り翌日、
「サクラサクラ」という電信を受信し、以後通信は途絶えた。

ここにペリリューの日本軍は玉砕したのである。

現在のペリリュー島には慰霊施設として神社があり、
そこの記念碑にはこう書かれている。

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諸国から訪れる旅人たちよ

この島を守るために日本軍人が

いかに勇敢な愛国心をもって戦い

そして玉砕したかを伝えられよ

米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ
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ぺリリューの戦いから67年。
リゾートとしてのパラオ諸島は知っていても
この戦いを知る日本人は少ない。

一方、太平洋上では、ペリリュー島上陸に遡ること三か月前の昭和19年6月、
サイパン戦に伴い「あ号作戦」発動、日本海軍の総力を挙げたマリアナ沖海戦が起こり、
祖父である照雄さんは戦艦榛名で生死を賭けて戦っていた。

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