日露戦争に辛勝した日本は連合艦隊の解散式典で
東郷平八郎が「勝って兜の緒を締めよ」と締めくくり
強国の仲間入りを果たした。
が、巨大な海軍と陸軍という組織は残った。
この組織を維持するために日本は多くのおカネを投入する事になりまた、
国民もちょっと戦勝の熱に浮かれたりするのであった。
大正に入るとなんとなく風紀が乱れ子どもに自分の事を
「パパ」とか「ママ」とか呼ばせるような親が出てきたり
女性がファション刺青したりとか、君が代を歌えない子どもたちがでてきたりとか、
なんじゃそら平成か、という時代の空気の中、第一次世界大戦に参戦した日本は
戦勝国として、ドイツが支配していたパラオやマーシャル諸島等を
委任統治領として譲り受け、国際連盟の常任理事国となった。
つまり良い悪いは別にして日本が租借含め統治していたのは、
この時点で本土のほか、樺太とかの今で言う北方領土、大陸の関東州、朝鮮半島、台湾に加え
これら南洋諸島と、今の俺たちからはちょっとイメージできない範囲に及んでいたわけだ。
でもその後の世界恐慌、関東大震災で日本経済は弱体化し都市部も農村も大きな打撃を受け
ブラジルとかアメリカとか関東州とかの大陸へ渡る人々が増えた。
ちなみに、ご先祖夘四朗さんの弟、彦八さんは大正4年くらいに新婚の奥さんと渡米している。
その子孫の人たちとは一度会った事があるけど既に米国籍であり、小学生だったボクは
とりあえず国語の教科書を読み聞かせてあげたものだ。
渡米と恐慌とが関係あったのかは謎だ。
そしてアメリカとかはそろそろ日本を仮想敵国化してオレンジ計画とか練り始める。
イギリスも、一頃のような親密さは無い。そして、軍艦をじゃんじゃん作って経済を
疲弊させることを回避させたいという思惑もあって軍縮条約。
今で言う核不拡散条約みたいなもんか。色々あって英米5に対して日本は3に決定。
あんまりこのへんの経緯はよくわからんけど
そんなこんなで「日本の生命線は満州だ」ということで大陸に活路を見出そうとする中、
河元大作大佐による張作霖爆殺、天才、石原莞爾を中心にした柳条湖事件という
一連の流れで、ラスト・エンペラー溥儀を傀儡政権に満州国が建設される。
石原莞爾のイメージは、後の歴史とは異なっててかなり素敵な国になる予定だったが
陸軍内部での賛同を得られずその行く手は少しずつ予定と乖離していく。
このへんは、石原莞爾の最終戦争論や、遺品のノート類に詳しい。
それでも日本本土、特に農村はえらく疲弊しており、
この頃の農村の様子として、昔教科書に大根をかじってる子どもの写真が載ってたっけ。
それはものすごい景気の悪化だった。東北の主要産業であった養蚕が打撃を受け、
娘を売ったりとか、村ごと植民したりとか、そういうレベルである。
そんな農村の状況を打破しようと、青年将校が決起したのが「2.26事件」。
しかしこれは昭和天皇が激怒して許さなかったこともあって、
青年将校たちを焚きつけた陸軍のエライさんが梯子を外して鎮静。
結局、手段は悪かったがピュアな気持から事を起こした青年将校たちの死によって
事態は収束したのであった。
事柄の前後関係とか間違ってると思うけど
だいたいこんな感じで、徐々に軍靴の音が世の中に聞こえ始めたのであり、
ボクの祖父、照雄さん、展治さんが生まれたのは、こんな感じで徐々に
時代が影を射してきた大正時代の後半だった。