船坂弘という人を知っているか

みなさん、船坂弘という人をご存じですか。

絶対知らないと思いますので、ご紹介します。

【船坂 弘】

1920年生まれ、軍隊での最終階級は陸軍軍曹
あだ名:不死身の分隊長
除隊後の職業:大盛堂書店代表取締役

そうです、あの渋谷の大盛堂書店の創設者です。

南方アンガウル島での戦いにおいて、
擲弾筒および臼砲での戦闘で多大な戦果を挙げ、
ゲリラ戦に移行した後、左大腿部に裂傷を負う。

米軍の銃火の中に数時間放置され、ようやくやってきた軍医は
彼の傷口をみるなり「こりゃ助からない」と、自決用の手榴弾を置いて立ち去った。

しかし彼は驚異的な精神力で自力で止血し、
夜通し這って洞窟陣地に帰りつき、翌日には歩けるまでに回復、
左足と両腕を負傷した状態で銃剣での白兵戦闘を行い鬼神のごとく奮戦を続け
不死身の分隊長と形容される。

しかし腹部に敵弾を受けるなど重傷を負った彼は再び這う事しかできなくなり、
傷口に沸いた蛆をみて「蛆に食われるくらいなら最早これまで」と決心して
自決を図るが手榴弾は不発であった。

まだ死ねないのかと深い絶望に陥るが、
ならば最後に一矢報いんと、手榴弾6発を体にくくりつけ、
拳銃一丁を握りしめて数夜這い続け、4日かかって米軍指揮所テント近くまで到達する。
この時すでに全身20か所に砲弾の破片を受け、這い続けたことにより
軍服はボロボロ、さながら幽鬼のような姿であった。

遂に、片手に拳銃を握りしめ、片手に手榴弾を持ち
残りの手榴弾を括りつけた体で立ちあがったその姿は
米兵の発見するところとなったが、あまりの異形に
米兵は茫然となり声も出なかったという。

そして手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、
頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。

居合わせた米軍の軍医は、弘が握りしめた拳銃と手榴弾を
手から離すために指を一本一本解きほぐしながら、取り囲んだ米兵たちに
「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている。

しかし、弘は3日後に米軍野戦病院で蘇生する。

この不死身の日本兵はたちまちアンガウルの米兵の間で話題となり、伝説のように語られた。

ペリリューの収容所に身柄を移された弘は、監視の目を盗んで収容所を抜け出し、
日本兵の遺体から抜き取った小銃弾の火薬で米軍弾薬庫を爆破し、素知らぬ顔で
収容所に戻ってシラを切りとおしている。

彼は「戦後の日本を復興させるためには勉強だ」ということで復員後
渋谷に一坪の書店を出し、それが大盛堂書店の始まりである。

彼の著書にはペリリュー、アンガウルでの戦いを描いた戦記があるが、
自身は著作で得た資金をなげうって、遺骨収集事業を行っており、
不思議な霊体験を記した著作もある。ちなみに、感動する。

以上、不死身の分隊長、船坂弘さんの紹介であったが

普通の人は「アンガウル?ペリリュー?」だろう。パラオ諸島の事だと言っても
リゾート地としてのパラオしか知らないだろう。

パラオは当時日本の委任統治領だったので、ペリリュー神社なるものがあった。
今もある。そこには、こんな石碑がある。

「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本国軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 」

米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ

そしてパラオの国旗というモノをご存じか。
戦後独立を果たしたパラオの国旗は青字に月、そう日本の国旗と色違いなのだ。
しかも、ドセンターに月を持ってきては日本に失礼だという事で
中心をわずかに外してある。